全日本学生空手道選手権大会発足 昭和32年、学生空手界もようやく年来の努力をへて、ついに画期的な時を迎えた。
 同年11月、全日本を通じ40数大学の空手道部は東京に会し、第1回全日本学生空手道選手権大会が開催された。 ついに空手道統一への途は、若き学生達と、利害を無視した卒業生達の協力でその第一歩を踏み出した。
 同志社からは大会委員、或いは審判としてOBを代表して谷(20年度卒)、藤本(23年度卒)、三木(26年度卒)、山下(27年度卒)、山本(同)、杉原(28年度卒)、本田(同)等が参加し、現役は坂口晴彦主将以下、島田豊太郎、芦田友秀、山本恵一(以上34年度卒)、岩城雅勝(35年度卒)が出場。その充実した実力は優勝候補の一角と目されていたが、第1回戦拓大との試合に敗れてその機を逸した。
 翌33年6月には、大阪難波府立体育館で近畿・中国・九州・四国の大学22校が参加し第1回関西学生空手道選手権大会が行われ、同志社からは坂口、山本、岩城、平井康昌(35年度卒)、原田倫夫(同)のメンバーで出場、立命館、関西大についで第三位となる。
 同年10月、大阪府立体育館で行われた第二回全日本学生空手道選手権大会には岩城、平井、原田、吉本尭と内山豪基(36年度卒)が参加した。剛柔流の特長たる「受け即攻」の接近戦に加え、あまりにもはり切った精神と体力は限界以上に相手を圧し、攻撃する突き、蹴りが相手にふれすぎて反則多く、またまた好機を逸し、立命館、拓大、関大の後塵を拝する結果になった。
 この大会の前後、スポーツニッポン誌主催の座談会があり各大学OB8人が参加したが、話の焦点は空手道の技が門外不出として各流派のみにとどめられていた武道が如何に近大スポーツとして脱皮してゆけるかという点だった。従って同じ年の5月に新しく共通の競技ルールが決められた。
 翌35年5月、新メンバーをもって第二回関西大会にのぞんだ。その面々は岸田祐吉(36年度卒)、樫山弘司(同)、友原晋吾(37年度卒)、清水義道(同)、野崎健彦(同)だった。関西大学に第一位をゆずったとはいえ、善戦して第二位を獲得した。