戦後再建への道 「国敗れて山河あり」という。空手道部もまた多くの先輩を戦の野に失った。まこと沈痛のきわみである。
 いまここに50周年を迎え、戦後物故された先輩、後輩の各位にもわれら衷心より哀悼の意を表するものである。
 さて昭和20年の終戦を境に、無事帰還した部員達は再び学園にもどってきた。
 戦時中とて一日も休むことがなかった空手道部はさらに活発な部活動がはじまる。
 食料事情、交通難、生活問題等等山積する困難も問題ではなかった。
 本間正俊、北島英太郎、西川賢三、藤本博、安原善雄ら集合、第8代主将のもと終戦一年にして再建への道は拓かれ、昭和21年10月1日、西川主将(第9代)を中心に本格的部活動がかたまった。
 西川、通称「ケンさん」の事を日誌は次のように記している。
 「和気あいあいたる空手道部を、文字通り明るく朗らかにして下さった功績は大きい。ヒゲ面で同志社の名物男の一人として余りにも有名であった。練習は相当あらかったが実力本位の闘志を養ってくださった。技もきわめて速く鋭かった。」
 昭和22年4月、藤本が第10代主将、安原善雄が副将として、部は次第に旧に復し、部員も実に40余人をこえ、その隆盛は驚くべきものがあった。
 難波四郎をはじめマネージャーには橋本元治、サブマネに辻本光彦、上田順一という錚々たる人物が「番頭役」をつとめ、戦後の”黄金”時代を築いた。
 そして戦後、はじめての合宿が同年7月、和歌山県友ヶ島で行われた。
 大きな土蔵を借り、床にムシロを引いて寝起きする、一週間の”荒行”。
 一日9時間、ほとんどの者は真っ赤な小便が出るという有様だった。
 意気まさに天を衝くものがあったが、合宿の後半は食糧難で、オカユとイモで頑張った。
その年11月17日、藤本、通称”大仏”を主将に、鶴繁一(24年度卒)、難波四郎、辻本光彦、上田順一、辻林健次(以上、25年度卒)、三木敏寿、川内一郎、古橋忠兵衛(以上、26年度卒)で東京各大学遠征の途についた。
 僅か4日間の在京だったが、専修、早稲田、慶応、紅陵(現拓大)、明治、立教の7校と交歓練習を行った。
 まこと”たたかい”と言うにふさわしいものだったが、戦績はすばらしいものだった。
 当時、手組にルールはなく、まさに倒すか倒されるかの瀬戸際迄のもので、まことに凄惨そのものだったが、この武者修行は成功裡に終えた。
 なお上京中、終始お世話になった専修大学空手道部各位に改めて謝意を表したい。
 昭和23年第11代主将に再び藤本、副将難波、道場監督鶴繁一が就任、年あらたまって昭和24年、第12代主将難波、辻林副将、辻本、上田、増田、川内一郎、三木昭三、鶴目信弘の猛者にひきつがれた。
 関東の大学との交流は大きな収穫をえた。すなわち昭和25年11月15日には、松涛館流を修める5大学−早大、拓大、専修大、中央大、法政大の総員36名が西下、立命館高校講堂で同大、立命、関大、近大、大阪工大、和歌山大の各部員と交歓練習を行った。同25日には鶴目、大多一雄、片山博美、鈴木義一、足立恒(以上27年度卒)の5名が上京、日本学生空手道連盟結成会議に出席した。全日本の学生空手道人はもはや空手道は各流派別の孤塁に立てこもらず、新しいスポーツとして団結しようとする第一歩をふみ出したのである。