学生空手道統一へ この連盟結成会議を機会にわが大学も三木敏寿、吉川忠、天満増、古橋忠兵衛(旧名敏宏)、藤原新平、川内一郎、青木貞憲(以上26年度卒)、そして鶴目、大多、片山、柴田長次郎、山下文一、山本武義、広瀬覚、佐野和夫、鈴木義一、熊内徹(以上27年度卒)を中心として学生空手道統一へ努力を続けた。
 昭和25年13代主将は藤原新平、26年14代に鶴目とうけつぎ昭和27年、やっと世の中は明るさと落ち着きを取り戻し、学生生活も一層活気を呈してきたが、部も第15代主将に杉原茂、副主将に本田章、伊藤高義、道場監督に鳥井敏夫、古池伸治、後藤冶明、野田義一、高瀬和彦、田中誠を中心に結束、実に60余名の部員を擁し、意気盛んなものがあった。
 当時の部日誌をみてみると、杉原主将については「組手における矢継早の速攻は正に天下一、特に裏拳と開口拳はその比を見ない。三日月蹴りにも物凄い威力がある。又まかなかの男前、ずい分もてるという噂…」である。
 本田副主将については「通称スケさん。シブイ良い男、少し低い独特のかまえからの足刀、三日月蹴りとか足技が得意、お酒が好きで、ギターもうまい」といった調子である。部員60名が実になごやかに練習にはげみ、友情をはぐくんできたことがこの日誌を通し感じられる。
 またこの頃、英文毎日の記者となった藤本によって、空手道が毎日新聞、英文毎日発行の海外向け年鑑”ニュー・ジャパン”に紹介され一躍、国際スター(?)になった。
 同年5月17日、OBと現役の連絡を密にすると同時に、合同練習による技術向上を計る目的で、現役、OBを一丸とした「拳友会」が発足、大阪近郊に卒業生の多いことから、大阪曽根崎警察署の柔道場をかり、毎週土曜日午後6時より定期練習を開始、のち引きつづき大阪南署で行った。
 毎夏の合宿も次第に遠方にゆくようになり、その土地土地の風趣をめでつつ練習にいそしむようになった。
 その中でも熊本県天草での合宿は、日誌によると「朝5時駆け足約1時間、7時半朝食、9−12時練習、12時半昼食、4−7時練習、警察の武徳殿をかりて練習する。毎日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞、天草新聞の記者来り写真をとったり、インタビューしたり…」とあり、練習の厳しさと同時に楽しい想い出も残した。
 楽しいことばかりではなかった。昭和27年5月23日、剛柔流師範宮城長順先生の沖縄帰国後、わが部のよき師として指導していただいた日本空手会総本部養秀館々長摩文仁賢和先生が急逝された。
 「背は高くなく小太りで、正に好々爺という感じで大家ぶらずに気易く話をしてくださり、特に同志社大学には目をかけられ、先生の道場でお菓子をよばれるのは我々だけだった。沖縄なまりか、同志社をドースサと云われたり、色々と沖縄の話をしてくださった。この様な先生は今後また現れることはないだろう。この先生に手をとって教えてもらった我々は幸福だった。」と当時の部日誌は書きとめている。
 なお先生の第33回忌追 悼会は昭和59年5月27日、大阪において多数の空手道界名士参加をえて行われた。
 28年第16代として足立恒主将、副将岡田、道場監督嵯峨根豊、篠原茂、マネージャー竹内一、サブ・マネ樋本勝美によってひきつがれてゆく。