同志社大学全日本を制覇、2年連続優勝へ 同志社の運動部はねばりがないとよく批評されるが、空手道部はこの弱点を打ち破るべく努力した。”強い者が勝つ。これが鉄則である。他の人以上に練習し、苦労し、精神力をきたえた者が強いのだ。”部員達はただひたすらその「強い者」になろうと精進した。
 そしてこの努力がついに実になるときがきた。
 昭和35年11月13日、所は大阪府立体育館、会場まさに1万人の観衆にふくらみ、各大学の応援団の拍手と応援歌のとどろく中に第四回全日本学生空手道選手権大会はひらかれた。
北は北海道から南は九州までの57校が参加するという未曾有の大会であった。
 ここに各新聞に掲載された予想記事と対戦模様を記し、優勝グループの殊勲を讃えたい。
 「……大会はその回を重ねるにつれ流派を超越したスピードとテクニックが、学生空手道の主体をなすようになった。相手の体にふれる寸前で正確な”拳”を止めて、きめる技術がスリルを求める新時代にマッチしているといえよう。拓大あたりを優勝候補とみたいが、関大、大工大が打倒拓大をめざしているので予断を許さない。ダークホースとみられる同志社、日大の上位進出も期待される…」(毎日新聞)。
 この評を書いた藤本も他のOB達も同志社の実力の外部に知れることを極力おさえ、内にその力を秘め、試合にその実力を示そうと満を持したのである。
 わがチームの意気や盛ん。この日、大将友原晋吾(経・3年)、副将中村顕太郎(商・2年)、中堅清水義道(商・3年)、次鋒高野聡(文・2年)、先鋒野崎健彦(法・3年)は稲葉明(33年度卒)監督、平井康昌(35年度卒)コーチのもと、先ず東京獣医大学を一方的に5−0で打破、次いで九州大学を5−0、次いで強敵慶応と対戦、試合は2−2で大将戦に持ち込み、友原の見事な突きで慶応を退ける。
 ついに準々決勝へ。純白の仕立ておろしの道衣に黒帯、左胸に三つ葉のクローバーの校章。戦士も応援するものもまさに一体となり、関西大学を破り進出してきた千葉工大に対決。3−2でわが軍門に下す。
 かくして同志社×大工大、拓大×東洋大で準決勝が行われることになった。この一戦を当時の新聞記事でふりかえってみよう。
 「準決勝は実力派がでそろい激戦だった。関西同士の同志社×大工大は大将戦で友原がうまく勝ち決勝へ。拓大×東洋大は代表戦に持ち込み、拓大浅野が東洋大清水を破って決勝へ。」 と報道している。
 かくして関東の拓大と関西の同志社が雌雄を決するときがきた。午後5時30分、監査役1名、主審1名、副審4名の厳正な審査のもと試合は開始された。
 「…同大は先鋒、二陣と拓大に先取点されたが三人目中堅の清水がきれいな突き一本で1点をとってから元気づいた。つづく副将中村は思い切った出足払いで浅野の体を大きく崩して突きを決め、大将の友原に引き継いだ。友原−木坂は双方突き、蹴りで技ありをとって勝負決まらず延長に入った。互いに技を競い合ううち一瞬友原の左からの突きが見事、木坂の胸にささって同大の初優勝が成った。同大の優勝はがっちりまとまったチーム・ワークと、試合毎にもりあがった闘志の賜物といえよう。…」

 昭和36年11月5日、最強同大チームは再び全日本学生空手道選手権大会を制覇した。4−1で日大に勝利したときの感激をあらたにしよう。
 ”同大空手道部強し!”の声は空手道界にこだましたが、一方、一つ一つの技は研究しつくされ、残念ながらそれ以降、武運拙きものがあった。しかしこの50周年を飛躍台として心を引き締め再度、全国制覇に向ってOB・現役一丸となって努力したい。